(顕・密)法華三部経大系

法華三部経大系(総論)   (顕・密)法華三部経大系
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●法華三部経大系(総論)
1981年の著書、テレビのベストセラー紹介番組で3周連続1位となる。
  目 次
第一章(序説)
 法華三部経の名の由来
 仏と菩薩の関係
第二章(悟りの本質)
 十二因縁と現代科学
  ブッダと如来の違い
  インドとブラフマン思想
  影の世間と光の真理
  提婆達多と末法
第三章(仏教史観)
 仏教学と世界史
  結び


 ゛経 ゛の名を冠した書籍に関しては、堂主人レベルでは書評を慎ませて頂きます関係上、本書のさわりの部分である3ページから5ページまでを引用して紹介に代えさせて頂きます。以下引用


 「法華三部経大系の名前の由来は妙法蓮華経(一般に法華経と呼ぶ)に開経の役割を果たす無量義経、結経の役割を持つ観普賢経の三経を合わせて法華三部経と呼ぶ事からきています。
 法華経の名は誰しもが知るところでしょうけど無量義経や観普賢経の名は仏教を専門に研究する人でない限り人々には知れ渡っていません。それだけに無量義経や観普賢経を法華経と一緒にして法華三部経と名付ければその題からして一般向きというより専門家向けを対象としているようにとられがちです。
 私としてもその方が楽だと思いますが専門家と言っても仏教用語や仏教の歴史、仏法論理等の知識を一般よりも多く知っているだけという人が多く、しかもそれらの知識が歪曲されて誤謬が多い現実では好むと好まざるに拘らずそれらを一つ一つ正さなければならない作業に追われ、肝心の仏教の探求が二の次になってしまう恐れを思えば仏教を何も知らない一般人を対象とした方が実際には楽かもしれません。
 そういう意味ではこの題名は適切でないかもしれません。しかし仏教用語、もしくは仏教形式を用いず人々を仏教に導く実践行は既に私自身行なってきているのです。その上で考えるところあって、あえてこの題名をつけた次第です。
 無量義経は法華経序品第一に
 『仏、諸の菩薩の為に大乗経の、無量義、教菩薩法、仏所護念と名づける教えを説いた後、無量義処三昧に入って身心動かず、是の時、神変の相を現じる。』
という描写があり、これは昔も今も未来も変らぬ法華経を説く前の現瑞として説かれています。 つまり法華経は突然にして説かれるのではなく朝日が地平線から登る前に天空を輝かす瑞を見せる様に法華経の始まりの前には必ず無量義経が先ず暗闇(無明)を光明に変じる相を現わす理を示しているのです。
 しかし、晩のこの輝きも結局は朝日の光明の一端の姿であり無量義経はこの意義から法華経の開経として法華経の中に含有される訳です。
 観普賢経の場合は法華経の最終品である普賢菩薩勧発品第二十八と因果の関係にあり観普賢経に
『大乗方等経を誦習するを以っての故に、即ち夢中に於いて釈迦牟尼仏、諸の大衆と耆闍崛山(霊鷲山)に在して、法華経を説き一実の義を演べたもうを見ん』
  さらに 観普賢経に、
『方等を読誦し大乗の義を思うべし。念力強きが故に我が身(釈迦牟尼仏)及び多宝仏塔、十万分身の無量の諸仏、普賢菩薩、文殊師利菩薩、薬王菩薩、薬上菩薩を見たてまつることを得ん』
 とあって法華経の事相を観じる行法が説かれている。これは釈迦滅後に生まれた人達が法華経の経典に出会うとも経のみであってその現実の場に居合わせない為に果報を受けにくいのを察して未来世の衆生の為に観相において法華経の事を観ると同時に普賢の行を行じ、未来世の法華経説法の場に縁する困を得る事を説いています。
 そこで無量義経が法華経に対して暁ならば、観普賢経は日没後の薄明となります。しかし、日没後の薄明といっても結局は、夕陽の光明に他ならない為に、観普賢経は法華経の結経として法華経の中に含有されるのです。
 それ由、法華経に閉経としての無量義経、結経としての観普賢経を合わせて法華三部経と為すのです。
仏と菩薩の関係
 私はこの法華三部経大系を執筆するにあたって既存の仏教書の様な内容にする気は無く、又宗教じみて書く事も如何なる教団の入門書ともせず、又これを書く側の私自身を制する事も無く、宗教的に高める事も必要としない。唯、ありのまゝ。この本によって宗教を正し、読む人に本当の仏教とは何かを教えたいと思うものです。
 しかしながら、その様な気持で書こうとしても読む例の対象者が定まらない為自ずと筆も定まらず、気持に反して自らを制止し、止観において流れを見、証を見極めてより書かざるを得ない事もしばしばあり、集まって来る人においてはその人の浅深、愚賢、その私欲に因って喩をもって説き、方便をもって行を示し、外証をもつて理を保たせる方法も取れるがこの書の対告衆にあたる読者の中には婦人、老人、学生等の男女、老若、信者、研究者、学者や僧侶から企業家、商人、一般の社会人までその機根の相異やこの書を読む以前から弾圧、もしくは批判しようとしている輩から最後の時(国土)になってもまだ悪業によりで邪魔しようとするアトランティス、オリオンの記憶を持って性懲りもなく生き残っているおろかな魔民達等まで多種多様な為、これらは私のせいではないにしても文章の走りは天地縦横、表にして裏、顕密浅深にして書かざるを得ないのです。
 要を言えばこれは私の法華経です。法華経を鋭いた仏教の祖、釈迦釈尊にしろ日本大乗仏教の師、天台大師にしろ筆を執って書に顕わしてはいないのです。法華経の成立にしろ漢訳、サンスクリット訳にしても又今日、和訳と称してその意を失う書物の類にせよその人法華経≠ネのです。
 法華経とは説かれたその時点を出発点とするのではなく、巻物を指して法華経と言うのではなく行を指して法華経と言うのではなく、本尊を指して法華経と言うものでもない。現代人にはとうてい想像する事もできない本体を持つ由に法華経は影の如く像の如く説かれ、いつの世にもどこの世界にもどんな法の中にも存在するのです。
 法華経がなければ釈迦の教えは仏教にもならず天台も大悟とならず、それ由に伝教も存在せず法然、親鸞、道元、日蓮等の日本仏教も生まれなかった。さらに流れの遠くを言えばムーの頃より銀河の始めよりこの経は生命の心と共に歩んでいたのです。つまり誤解してはいけないのだが法華経は今日残っている漢訳正法華経十巻、漢訳妙法蓮華経八巻、漢訳添品法華経七巻やチベット訳、英文訳、サンスクリット本等を指して法華経というのではない。
 つまり日本仏教の所依の経典として、あるいは日本人に一番親しまれている経典として羅什訳の妙法経八巻二十八品を例にして取り上げてみれば提婆達多品第十二に釈迦が過去無量劫の中において法華経によっで成仏したと記され、竜女が速やかに成仏の相を顕わすその現証を竜宮において唯、妙法蓮華経のみを信じるゆえにと説かれるところに注目してみればわかる事です。
 普通、釈迦が教えを説いた後、弟子がこの教えの経の名前は何としますかと言う問いに応じ何々の教えとつけられた場合なら名前と教えは一致するがこの経の様に経典の中の随処に法華経の存在が説かれでいる場合、妙法蓮華経八巻そのものを指して法華経と思うのは経題に囚われ過ぎている事になります。
 釈迦の弟子達はこの法華経の存在、法華経の力を示されてその経の中身を聞く前に驚き、あるいは疑い、その理を問う事も教えを問う事も出来なかった事が法華経の経典の中に説かれている。しかし、それでは法華経は開かされない事になり釈迦の成仏の理も示されない事になる。すると人々にとって釈迦を信じて修行しても釈迦の様に成仏する事は出来なくなり、今日これ程までに仏教が広まる事もなくなってしまう。しかし現実的には釈迦の弟子達は法華経を信受する事さえ困難なくらいなのです。そこで釈迦の気持を汲み取って大乗菩薩が彼等の代わりをする。薬王菩薩、大楽説菩薩が大忍力を持って後の悪世の衆生の中においてもこの法華経を持続すると言い、文殊菩薩が如何に後の悪世の中でこの法華経を説けばよいのかと問い、他方の国土から来た八恒河沙の数を超えた菩薩達がこの法華経を仏の滅後の娑婆世界に護持し、広く説きましょうと言う。
 すべてが大乗菩薩のペースで話が進められる。それ由、釈迦の弟子達に応じて説かれ釈迦と縁するその時代の人達の為に説く釈迦一代の教えを小乗教と言い、様々な仏国土、様々な仏、釈迦と同じ様に修業して悟りを開いている大菩薩達のそれぞれの真理、教えというものが大乗教なのです。故に釈迦と同じ様な菩薩がある時代にある世界において何かを説いたとする。それも仏教であり、しかし、その時代のその世界の中でそこに集まった人達のみに応じた教えならばそれは小乗教と言えるし、もしその菩薩が釈迦と同じ様な教えを説き、それで悟れる人達が出てくればそれは大乗教となる。それ由、大乗教は釈迦独自の教えでもなく釈迦も又説き、天台も又説きという様に次々と大乗菩薩が出現して説く由に大乗教となり、釈迦に出会えなくても時代が変わって国土が変わっても釈迦と同じ様な人に出会えれば救われる、あるいは釈迦の弟子の様に悟ってゆけるという事になる。しかし、大乗菩薩といっても釈迦の時代ではその行は難行であった。それでも国王は釈迦に出合えばすぐに帰依し、バラモンの修業僧も釈迦と対話し、すぐにその意を知るや弟子になり末端の人々も釈迦に頼って供養をする時代でさえである。それが釈迦滅後になると世の中は段々とひどくなり悪世末法になればそれこそ想像を絶する世界となると言われているだけに釈迦以上の大昔薩でなければつとまらない事になる。あるいは大忍力が必要であろうし、それを支えとすを大慈悲が必要なのである。そこまでして経を広めよう、あるいは護持しようとする大乗菩薩の姿は他の経典では見られない。
 つまり法華経ゆえに仏滅後の悪世において大乗菩薩があえてこの経の為に出現するのであって法華経を除けばそれこそ仏教全般に伝えられている次の仏、弥勒菩薩が釈迦滅後、五十六億七千万年を経て再び釈迦と同じ様に王子となって生まれ、同じ様に出家し同じ様に悟りを開いて法を説くまで残された人々は仏に会う事も仏法に会う事もないという事になる。ここに五十六億七千万年という数字は地球の一サイクルの寿命を意味し、つまり成住壊空という輪廻に従ってやがて地球が壊を迎え空になって宇宙に溶け込み再び輪廻の縁性に依って地球が成生し、大地が定まって有情の生物が住する様になりやがて壊の時を迎えるに至る年数をこの五十六億七千万年という数字で表現している。この数字は現代科学が示している地球の年数の測定とほぼ一致している。つまり真理は永遠ゆえに再び地球が一サイクルして同じ様な時を迎えれば釈迦も又同じ様にして出現してくると考えられるからである。しかし、釈迦はブッダ、つまり仏になった為にその様な輪過から離れ彼岸に達してしまっているから再び生まれてはこない。ではここの理はどう説明するのかとなると釈迦ではないが釈迦と同じ様な菩薩となる。それが弥勒菩薩である。
 つまり経典の中で釈迦が弥勒に対して説法している意味を深く考察すれば成道して仏となった釈迦牟尼仏から見て弥勘はかつての自分であり未来に等しく(自分と同じに)なる訳で自分の過去、未来を弥勒を通して観るだけでなく過去の困と未来の果を同時に持つ事になる。
 こういう事は空想の世界でもなかなか理解しにくいものであろう。しかし過去も未来も同じ事が同じ様にくり返されているとしたら、つまりそれが輪廻観であるが仏とはそういう輪廻から離れた世界に存在している由にその様な過去とか未来の時間から離れて観る事は可能だと考えられるでしょう。丁度、地球が太陽の回りを一年かけて廻っているような状態の中でそこに住む人々が地球から離れない限り地球という時間の中で輪廻するのと同じで、もし地球から離れた場合、地球の中での出来事や輪廻にもはや影響されずに観察する事が出来るのと同じ理屈にとれるでしょう。
 さらにもう少し現実体験的に説明すれば幽体離脱、もしくは魂の離脱をした時に自分が自分の肉体を観るという体験をした方が少なからずいると思います。丁度それをもう一段階、二段階上げた状態と言えば何となく想像はつくでしょう。
 霊体になった自分が霊界の世界を知り、かつ肉体である自分を観る。そして霊体の自分が肉体の自分に語りかける。全く奇妙と思われるかもしれませんがこの位の事は誰でも経験できる範囲の事なのですがあまりにも肉体に自分を置き過ぎると金縛りとか霊夢といった肉体側からの観察しか出来ません。しかし、肉体から離れた霊魂が自分の死体に向かって家族がオイオイ泣いているのを見て私は死んでいないと家族に話しかけるといった様な一度死んで霊魂が肉体から離れて再び肉体に戻って生き返った人の許などは開いた事があるでしょう。この様な事はあって当り前だと思いませんか。だって誰だって自身を物だと思いますか。確かに肉体は物の様かも知れません。しかし、だからと言って自分を物だとは思わないでしょう。とすれば自分は物とは別なものなのですからその様に意識すれば物である肉体の自分を物でない意識によって観察する事が出来ると言えるでしょう。
 その様にしてさらに深く考察すれば仏となった釈迦は未だ仏とならない釈迦を観る事が出来る。つまり仏とは本願を達成し、もはや悩みのない状態ではあるが確かに釈迦にしてみれば過去においての本願は達成したがその達成の過程の中で新たに悩みが生じてさらに今において願いを持ったとすれば本願を達成した仏としでの釈迦と新たに本願を持った菩薩としての釈迦が生じて当然、仏としての釈迦は娑婆世界を離れ、菩薩としての釈迦は娑婆世界に新たに留まるから釈迦仏は釈迦菩薩を観る事が出来ると言えよう。
 しかし、その願いの困、その為の行、それによって起きる緑…と色々考察すれば釈迦仏と釈迦菩薩は同じにして同じでないとも言える。では釈迦菩薩とも言える弥勅は何ゆえに釈迦仏と切り離され娑婆世界に再び出現するかと問えば弥勘は別名を慈氏と呼びそれ由に釈迦仏は娑婆世界に慈悲を留めたという事になる。これが釈迦の心であり慈悲故に悟りを開いて、もはや悪業の輪廻の世界から離れていると言えども再びその世界の中に出現するのです。 それは丁度、泥沼に咲く白蓮の如くどんなに沼が汚くてもその汚れに染まらず美しく無垢の華を咲かせ、しかも華と実を同時に具現する様に因果不二の理を顕わして仏となると同時に又菩薩となって行をして又教えを説く。この白蓮を指して蓮華と言い、この様な仏と菩薩の久遠の生命の真理を妙法と言う。さらに蓮華の意味は広深に説く事が出来るが後述するとしてまずここで仏の基本的要素である悟りについて若干述べておかなければなりません。」引用終り


 この著作は、五井野氏31才のものであるというから驚きを禁じ得ない、科学、芸術において天才的才能を発揮して国際的に評価され、リサイクル運動、ふる里村運動をリーダーとして実践して日本にムーブメントを起こして広め、なおもいかなる宗教教団に属さず分かりやすくかつ正しく仏教を説くとは!!! 某カルト宗教団体のトップが五井野氏の才能に嫉妬し五井野氏の抹殺を図ったのが十分に納得できる位、魔物には妬ましいほどに隔絶して優れる高貴な才能と心の持ち主である。

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密の法華三部経大系(説明)

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